花の雨が降る
 実際、ドラマなんかで見るような桜吹雪なんて滅多にお目にかかれはしない。早朝は穏やかな風しか吹かないし、昼間は喧騒の中で綺麗な花弁も埋もれてしまう。
 だけど、そこは違った。
 余りにも近すぎたから気づかなかったのかもしれない。細道を抜けた所に、忍ぶようにして佇んでいた公園。小さな池のあるそこには、1本だけだが充分な存在感を放つ桜の木があった。
 余りにも何も無い大学1年の春休み。時間の消化に困っていた俺は、その桜の下で本を読むことがいつの間にか日課になっていた。
 午前8時に家を出て、本を1冊読む。
 大体文庫なんて3,4時間あれば読み終えることが出来るから、持っていった本を読み終えるのはお昼時になる。幾ら桜に見守られ、そして春だからといっても、昼の陽射しはやはりきついものがあるから、本を1冊読み終えると、俺は桜に別れを告げる。帰りに少し遠回りをして古本屋により、次の日に読むための文庫を1冊だけ買って帰る。
 そんな毎日を繰り返しているうちに、2ヶ月近い春休みは、あっという間に過ぎてしまっていた。
 2年になってからは、バイトをはじめたせいもあってなかなか時間を取ることが出来なかったが、それでも午前中に暇があると同じようにして本を読み耽った。
 懐かしい思い出だ。
 久々に整理した本の山。捲った頁の隙間から落ちてきた、茶色に変色してしまった桜の花弁。
 もう、あの公園には長い間行っていない。それに、余りにも遠く離れてしまった。
 実家に帰れば、あの公園に行くことは幾らでも出来るだろうが、俺はそれをする気が起きなかった。
 巨大だと思った、あの桜。その思い出が俺自身の成長によって壊されるのが、怖い。それに、もしかしたらここ数年の間に取り壊されてしまっているかもしれない。そこまで行かなくても、利用者のいない公園はいずれ寂れるものだ。
 だから俺は、事実を知らないままでいる。現実から逃れているだけかもしれないが、その現実を知ろうが知るまいが、変わるのは俺の小さな世界だけなのだから、それだったら変わらない方が良い。
 思い出に、変化など要らない。
 それに、眼を瞑れば今でもはっきりと思い出せる。初めてあの桜を見たときの、なんともいえない感情を。そして、全身に降り注ぐ、花の雨を――。
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