果てなく平行?
 防波堤の上を、歩く。
 時折テトラポッドに当たって砕けた高波が、微かな風に攫われて肌を濡らした。もう少し水温が低ければ喜べたろうが、容赦ない夏の陽射しに熱せられた所為で、ベタベタと纏わりついて鬱陶しいだけだった。帰郷を懐かしむ、余裕すらない。
 それでも軽い感傷のようなものに歩調が緩まる僕を置いて、彼女は相変わらずの速足で遥か遠くにいた。お互い行き先は同じだから、どちらも調子を合わせることはしない。立ち止まり眩しそうに海を見詰めている彼女に、もう直ぐ追いつく。
 米神あたりから流れ出てくる汗と潮の香りのするその雫で、伸びかけた髪を掻き揚げるように後ろへと撫でつける。
「あの、さ」
 追いつくための最後の一歩を踏み出し、声をかける。それとほぼ同時か僅かに早く、彼女の口元が吊り上った。浮いていた足が地に着いたのを見計らったかのように僕の方へと向き直った彼女は、クスクスと声を出さずに笑っていた。
 変わってないな。
 その表情に、仕草に、何となく安堵を覚える。
 しかし彼女は可笑しければ可笑しいほど、発せられる声は少なくなるという奇妙な笑い方をする人だという事を僕は知ってる。もしその笑い方も変わってないのだとするのなら。
「…何?」
「何か大切な事を言おうとする時、いつもそうやって髪を掻き揚げる」
「そう、だっけ?」
 未だ笑いながら。そう、と頷いた彼女は僕の真似をするかのように自分の髪を掻き揚げた。
「最初は髪が邪魔なのかなとか、恰好つけてるのかなとか思ったけど。掻き揚げる髪が無い時もそうしてるの。ああ、癖なんだなぁって、思った」
「…髪が無いって。それじゃまるで僕が禿げてたみたいじゃないか」
「どっちでも、大して変わらないでしょう」
 髪が、無いのと短いのだと。随分と意味が違うと思う。けれど、そんな事を今更言い合ってても仕方ないと思い、そういう事にしておくよ、と返した。
 途端、会話が途切れる。僕の決意もいつの間にか何処かへ流されて行ってしまったようだ。
 それに気付いて、後悔した。もしかしたら彼女は、もう少しこの話題、いいや、この話題ではなくても、何か他愛も無い話をしたかったのかも知れない。久々の再会を楽しむように。昔を、懐かしむように。
 そういう所ももしかしたら、相変わらず、なのかも知れない。
 いつもいつも、タイミングよく話はそれ、僕の決意は流される。それは単なる偶然だとか、僕の切り出し方が悪い所為だとか思っていたけれど。彼女は僕の癖を知っていたのだから、聞きたくなくて業とそらしていた。多分、きっと。ずっと。
 よくよく考えてみれば分かった事だ。あの頃は、僕は一目見れば誰でも気付きそうな程分かり易い言動をとっていたような気がする。それに比べて、周囲の奴等に漏らせば、自惚れだと言わてしまいそうな程にしか見せていなかった彼女。当事者とは言え、鈍感な僕がそんな小さな想いに気付いていたのだから、敏感な彼女が、分かり易すぎる僕の想いに気付かない筈は無かった。
 けれど。でも。だとするのなら、何故。
 僕がずっと、彼女が僕の気持ちに気付いていないと思い込んでいたのは、その所為だろう。
「どうかした?」
 向き合った姿勢のまま黙り込んでしまった僕に、彼女は笑顔で問い掛けてきた。
 ああ、この人は知っているのだな。
 何でもないと首を振る僕に笑顔だけ残し、再び歩き出した彼女の背中に、思う。
 分かっているんだ。僕が言わんとしている事を。
 そして気付く。彼女の、気持ち。
 きっと彼女は。今でも…。
「もうすぐね。ここに輪っか、掛けられるんだ」
 突然、彼女は両手を掲げるとそう言った。僕を振り返る事無く。けれどしっかりと聞き取れる程の声量で。はっきりとした、声で。
 ここ、と彼女の右手が示した先は、左手の薬指。右手の人差し指と親指で作った小さな輪が、吸い込まれるようにゆっくりと、そこに嵌る。その意味を、僕が理解するよりも早く。結婚するんだ、と彼女。それは迷いの無いものだったけれど、半分は彼女自身に言い聞かせているようにも思えた。
 何て、返すべきか。次の波が飛沫をあげるまでの間に、思考を巡らせる。それはほんの刹那だったけれど、僕にとっては充分すぎる、そして彼女にとっては恐らく永遠に等しい程長すぎる時間だったと思う。
 テトラポッドに当たった波の欠片が、頬に当たる。彼女が眩しそうに振り返る。その瞬間、僕はやはり髪を掻き揚げていた。
「おめでとう」
 自分でも驚く程の澄んだ声が出た。
 多分、これが正解。だろ?問いかけるよう見詰める僕に、彼女は髪を掻き揚げると、ありがとう、と唇だけで呟き、そして微笑った。
inserted by FC2 system