残されてく者 - 1
 窓の外は白んで来ているのに、この部屋は暗く深い闇へと堕ちているようだった。
 誰しもが泣き疲れ、時折聴こえてくる彼女の呻き声に体制を変えてやる以外、誰一人として動こうとはしなかった。
 電子音だけが、一定の間隔を辛うじて保ちながら、響く。

 窓から視線を落とすと、その片隅で名も知らない紅い花が萎れていた。  もう十時間以上前になるだろうか。病室に駆け込んだ俺たちに、医師はもうどうにもならない事を告げた。
 幾本ものチューブに繋がれ、呼びかければ目を開いたが、それは虚ろで。ほんの二日前に見舞った時の姿―その時も既に弱ってはいたが―とは比べものにならない程、残酷なそれに。取り乱した彼が床に叩きつけた、花の残骸。
 俺はその花の名を知らないが、その花は彼女が一番好きな花だという事だけは知っている。
 叫び疲れ、椅子に座り虚ろな目で彼女を見つめている彼が、以前そう教えてくれた。
 彼は必ず、その花束を大切に抱えては彼女を見舞った。殺風景なこの部屋が、少しでも明るくなればいいと。
 それでいて殆んど毎日のように病室を訪れていたから。恐らく、彼女の部屋にその花の香りが絶えることはなく、また、彼女がその花の死に逝く様を見ることもなかったのだろうと思う。
 その花が、誰にも知られる事無く片隅で静かに息を引き取っていた姿に、俺は堪らず病室を抜け出した。

 深とした廊下の、ひんやりとした壁に背をつける。
 遥か遠くに見える外の景色は朱に染まっていたけれど、ここまでその陽(ヒカリ)は届かなかった。もしかしたら、届いていたのに俺が感じ取れなかっただけなのかもしれないが。
 静まり返った廊下は、フィルターがかかったかのように暗く。まるで海の底から天(ソラ)を見上げているような心地がした。
 渇いた喉。粘りつくような唾液が、息苦しさまでも演出して。
 今にも届きそうで決して届くことはない陽に手を伸ばしたまま、成す術もなく深海へと沈み行く。そんなイメージに包まれた俺は、溺れたまま。白く変わって行く陽を恨めしそうにじっと見つめていた。

 やがて陽から色が消え、空も青く染まる頃。開け放たれたままの扉から、彼の、彼女を呼ぶ叫び声が聴こえてきた。
 そう言えばさっきから、電子音が――。
 事の重大さに気付き、急いで病室へと戻る。
 目に飛び込んできたのは、再び取り乱す彼。冷静な医師たち。枯れたはずの涙は、誰の目からも溢れていた。
 彼女の手を強く握り締めている彼の隣に足早に並び、モニターを見る。
 そこに波は、無かった。

 医師がドラマで見るよりも静かな動きで、彼女にショックを与える。
 1回、2回。
 すると、波が一度だけ立った。
 彼女の名前を呼び続けていた彼の声が、止む。
 どうしたのかとモニターから視線を下ろすと、彼女は薄っすらと目を開けていた。
 彼が掠れた声で、優しくその名を呼び、彼女の顔を覗き込む。
 それが、彼女に見えていたのかは知れない。けれど。
 彼女はそのまま、静かに息絶えていた。
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