スチームミルク
 約束の時間より、遅れて辿り着くよう部屋を出る。
 澄んだ空気を思い切り吸い込むと、草と土と雨の匂いがした。ゆっくりと吐き出す息は白く。それを追いかけると、雲の切れ間から太陽の光が真っ直ぐに差し込んでいる箇所を見つけた。それは僕がこれから向かう方角でだったから。もしかしたら、彼女を照らし出しているのかもしれない、なんて。妙な想像をしては、苦笑した。
 ジャ、と。踏み出す度に微かな音を立てるアスファルト。雨上がりの通りは、静かだと。いつも思う。実際は騒音が絶え間なく、静けさの欠片すらないのだけれど。何故か、そう思ってしまう。
 穏やかで、何でもない一日。
 それを素晴らしいと思うのはきっと、この錯覚のような静けさと、大地の匂い。それから、多分。この先に彼女が待っているという事実があるから、なのだろう。
 今頃、どうせいつもの遅刻だろうと時計を見ては、仕方ないな、なんて苦笑していることだろう。
 傍らには、飲み終えたスチームミルクがあって。手には、僕のためのスチームミルクが。必要以上に冷めないよう両手でしっかり包まれて。
 どうせ遅刻するのだから、着いてから頼めばいいじゃないかと。彼女に言われたことがあったけど。猫舌だから、なんて理由で。先に頼んでおいて貰っている。
 それにしても。どうせ遅刻と言う割には、彼女はいつも必ず、約束の2分前にはそこに着いているらしい。そして僕は、彼女が少し早めに着くのを知っていながら、約束の時間からきっかり3分、遅れて到着する。お互いに、相手の行動が分かっているのだから、部屋を早く出るなり遅く出るなりすればいいのだけれど。どうしても、そうする気にはなれない。
 待っている間、何をしているのかと。彼女に尋ねたことがあるけれど。特に何もしていない、という答えが返ってきた。ガラスの向こうから僕がとりわけ急ぐ風でもなく歩いてくるのが見えるのを、ただぼんやりと待っているらしい。楽しい、と訊いたら、詰まらないと言ったら早く来てくれるの、と返されたので、それ以降その質問はしないことにしている。
 だから、彼女が何故早めに着くようにしているのか、それは真面目な性格故なのか、他に何か目的があってのことなのか。僕には分からない。それを素直に性格の所為だと思えないのは、僕がルーズな性格だから遅刻をしているわけじゃないから。それだったら、きっかり3分遅れて来る、なんて器用なことは出来ないだろうし。
 きっと、言ったら呆れられてしまうんだろうな。
 天使の梯子の想像にそうしたように、僕は遅刻の理由を思い返しては、苦笑した。
 まぁでも、訊かれたら、僕はきっとあっさりと言ってしまうだろう。
 渡されたスチームミルクが君の体温に馴染んでいるだけ、僕は君からの優しさだとか愛情だとかを感じるんだ、と。
 だから本当は…。
「だから、本当は…」
 呟きながら角を曲がると、こちらを見ている彼女と目が合った。カップから手を離すことなく指先だけで手を振る彼女に、僕も小さく手を振り返す。
「本当は、僕は猫舌なんかじゃないんだ」
 僕の動作に満足げに微笑む彼女を見ながら呟くと、今の言葉だけは間違っても口にしないようにとしっかりと自分に言い聞かせては、少しだけ歩調を速めた。
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